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寄り添う

突然ですが、手のひらを下にして自然に広げて見てください。もう一方の手で人差し指とか中指の先の方をつまみ、軽くねじってみます。
指を少しねじることが出来ましたか?
この動きは、指自身でやることは出来ませんが、指にはこういう可動性があります。

では、今度は広げた指に緊張を持たせて力強くパーをしてみて、それから又、もう一方の手で軽くねじって見てください。
いかがでしたか?前に比べてねじりの可動性が減少したのがわかりましたか?

人は何かを掴んだり取ろうとした時に、その物に触れる前から物の大きさや固さを認識して、腕を伸ばしながら同時に手も、その物に合わせた形を作っています。
それはとても大事な機能です。
生卵を取るときにはじめから大きさと柔らかさを予測して掴まないと大変なことになりますものね!
それは意識しなくても勝手に体がやってくれる、ありがたい機能です。

でも、ちょっと実験してみてください。
自分の腕をもう一方の手で軽く掴んでみます。
しっかりしたホールド感がありますよね?
次に、わざと最初から手のかたちを決めないで、腕に触れてから徐々に手を腕の形に添わせるようにしてから掴んでみてください。
どんな感じがしましたか。
掴まれた腕はどちらを心地よいと感じたでしょうか?

以前アレクサンダーテクニークの教室で、介護施設のスタッフの方のレッスンをみました。
自分の思い通りに動いてしまうお年寄りの方を、危ないので椅子に座らせたいが、連れていこうとしても中々言うことを聞いてくれない、どうすれば素直に座ってくれるだろうか?という悩みでした。
(アレクサンダーのレッスンでは、単に体の使い方だけではなく、しばしば自分の悩みもレッスンしてくれます。思考と体は繋がっていますからね)

その時、その状況を再現して見せてくれたのですが、本当に大変そうでした。
周りには中々理解できない考えに基づき動いているお年寄りは、力強く頑固です。彼女は一生懸命引っ張りますが、ようやっと座らせても又、すぐに立ち上がってしまいます。

その時、あの、手の使い方をしてみることが先生から提案されました。引っ張るのではなく、先ずお年寄りの背中に
寄り添うように手を添えて、彼を感じながら一緒に歩くのです。そしてしばらく歩いたのち椅子までリードします。
私達他の生徒がお年寄り役をやったのですが、明らかに寄り添われた方が、彼女のリードに従う気になりました。
引っ張られた時は、その力になんとか抵抗することしか考えられなかったのですが、自分の背中に同化するように手を置かれて、横を歩いてくれた時は、彼女のリードに従おうと自然に思えました。

実際に施設でいつもいつもそれが上手くいくとは思いませんが、きっと効果的な場合もあるでしょう。

余談ですが、私も教室でそれを使います。(私は、大勢のやんちゃな子供たちを教えています)立ち歩いたり興奮したりしている子どもの背中に、彼の体の形に寄り添うように手を置いて誘導すると、ビックリするくらい素直に椅子に座ったり、落ち着いたりします。
しかし、こちらにゆとりがない状態で、ただ手を置いてみても何の効果もありません。
不思議ですね。彼ら彼女らは私なのです。

今日私が書きたかった本題です。それはこの手の話に結びつけた教える話です。
私は、子どもや歌の生徒や、とにかく教える機会が多いのです。しかし、誰だって自分の子どもや年老いた親や仕事場の人や、とにかく教える機会はたくさんあると思います。
その時、いつもの手のように
その人の形を自分で予め決めてから教えるのと、形を決めずに、本来のその人の形に寄り添って教えるのでは、違う結果が待っていると思うのです。
教える側は自分の知識や技術をその人の能力に合わせた教え方で、出来るだけ伝わるように努力します。その時点で卵を掴む手の形が出来ているのと同じだと思うのです。
でも、ひょっとしてその卵は薄紙を張り合わせただけの卵かもしれないし、セメントでコーティングされた表面は冷たいけれど、中にはプリプリの黄身が詰まった卵かもしれません。
それらの卵にあったつかみ方をするには、それらに寄り添った手の形を、掴みながら模索するしかないのです。

忙しい毎日を送っていると、とても難しいことです。
いつも、寄り添う手を持ちたいと願いながらも、つい、雑に人と接してしまっている自分を見ることが良くあります。
アレクサンダーの授業を受けて、色々考えたり思い出したりしたことです。
今日1日は寄り添う手を持ちながら過ごしたいと思います。